ヤナギヤの出発点
ヤナギヤの出発点 YANAGIYA Spirits
また、元助は常に多くの人のために役立つ仕事をと考え、昭和6年夏、今度は市内で一番大きな、一番安いと言われる大衆食堂をかまぼこ工場のすぐ横に開業しました。この柳屋食堂は、宇部随一を誇る大食堂で、しかも値段が桁外れに安いということで大評判になり近隣の各都市、農村にまでその名が通っていました。しかしながら、柳屋食堂は昭和20年の宇部大空襲で全焼してしまい、再建されることはありませんでした。
一方、蒲鉾製造は昭和16年12月、宇部市内の8社蒲鉾業者による企業合同により「宇部かまぼこ合同組合」として、元助は初代組合長に就任しました。その後、昭和19年2月に株式会社に組織を切り換え「宇部水産煉製品工業株式会社」と改称し社長に就任。昭和22年6月には「宇部水産食品株式会社」、昭和24年11月には「宇部蒲鉾株式会社」と改称し、昭和30年1月まで社長の重責を全うしました。
また、元助は食堂や蒲鉾製造業を営む中で、手仕事だった蒲鉾原料づくりの機械化を考え、毎日の仕事(=かまぼこ製造)で研究と実験を重ねる中、昭和2年、ついに蒲鉾製造用の撹拌擂潰機(かくはんらいかいき)の実用新案出願を行いました。
出願は翌年の昭和3年に実用新案登録され、その後も実用新案出願、登録が繰り返される中、昭和5年には擂潰機の特許出願を行い、昭和6年1月28日、遂に第1号となる専売特許(特許第90050号)を得ることが出来、昭和7年6月、鉄工所を開業しました。
出願は翌年の昭和3年に実用新案登録され、その後も実用新案出願、登録が繰り返される中、昭和5年には擂潰機の特許出願を行い、昭和6年1月28日、遂に第1号となる専売特許(特許第90050号)を得ることが出来、昭和7年6月、鉄工所を開業しました。
かまぼこ製造の中でも最も重労働だった「練り作業」の機械化は全国のかまぼこ屋さんでも評判となり、柳屋式擂潰機は全国へ出荷されました。その後は魚肉加工機や蒲鉾型成機など次々と開発し、昭和26年「発明賞」、昭和27年「山口県知事賞」、昭和30年には水産加工機械の考案・発展に寄与精励したことにより「黄綬褒章」受の栄にも輝きました。
これらのことによりヤナギヤでは、現在の機械メーカーとしての礎を築いた元助が家業である柳屋蒲鉾店を継いだ大正5年(1916年)を創業年としています。
これらのことによりヤナギヤでは、現在の機械メーカーとしての礎を築いた元助が家業である柳屋蒲鉾店を継いだ大正5年(1916年)を創業年としています。
そして、創業者元助の魂は1957年、2代目社長、柳屋幸雄に引き継がれました。幸雄は社長就任の翌年には魚肉ソーセージの大量生産に対応する大型擂潰機の開発をはじめ、化学業界用の撹拌機も開発し、異業種展開と歩みはじめるとともに新社屋・工場を宇部駅横に建設移転し、営業拠点も横浜営業所に続き、大阪営業所を開設し、業務を拡大しました。
また、冷凍スリ身が開発されてからは、新たな原料処理装置として「サイレントカッター」を開発し、これが業界の大量生産化への大きなきっかけとなりました。これに伴い、大量生産型の板付型成機や後ラインの大型自動すわり蒸し機や焼抜機、冷却機などが開発され業界の近代化設備の礎を築きました。
その後は1975年、3代目社長に柳屋芳雄が就任。現在に至ります。
その後は1975年、3代目社長に柳屋芳雄が就任。現在に至ります。